F1

【愛すべきテールエンダー】ミナルディのF1挑戦の歴史が偉大!

1980年代から1990年代にかけてF1チーム運営に必要なの予算規模は爆発的に増え、多数のプライベーターチームが沙汰されて行きました。
そんなF1の世界で、2005年まで参戦を続け、多くのファンに愛されたイタリアの名物プライベーターチームをご存知でしょうか。

今回は、かつてF1に参戦していたイタリアの名物プライベーター、ミナルディの歴史を解説していきます。

【愛すべき名物プライベーター】ミナルディF1チームとは

F1チーム誕生まで

引用:https://www.snaplap.net/wp-content/uploads/2016/11/minardi-team.jpg

ミナルディチームの創設者となるジャンカルロ・ミナルディは、イタリアでフィアットのディーラーを経営する傍ら、1960年代後半からレーシングチームの運営を始めます。

ジャンカルロが運営していたチーム「スクーデリア・エベレスト」は1974年からヨーロッパF2選手権に参戦。
1980年になると自身の名前を冠した「ミナルディ」として参戦することになり、この年のヨーロッパF2にはオリジナル設計のマシンを投入して参戦しました。

そして1983年、ジャンカルロは夢であったF1への参戦を計画し始めます。
当時のF1はまだ牧歌的な雰囲気があり、自動車メーカーによる開発競争も激しくなく、プライベーターチームが比較的参戦しやすい状況にありました。

しかし、それでもF2とは桁違いの資金が必要なことに加え、当時のミナルディは20人ほどのスタッフしかいない小規模チームだったため、ジャンカルロの挑戦は無謀であると思われました。

それでもジャンカルロはF1への参戦計画を推し進めて行くと、1985年からのF1参戦を決定。

ジャンカルロはチーム規模の小ささを補うため、当時F1で成績が思わしくなかったアルファロメオとチームの共同運営やエンジン供給について交渉を進めていましたが決裂してしまいます。

アルファロメオとの契約はまとまらなかったものの、ミナルディのスポンサーになっていたピエロ・マンチーニが、
当時アルファロメオに在籍していたルロ・キティを引き抜き、レーシングエンジン製作会社、モトーリモデルニを設立。
ミナルディは後にこのモトーリモデル二エンジンを搭載することになります。

そして1985年、ミナルディは1カー体制でF1に参戦。
ドライバーにはミナルディでF2にも参戦していたピエルルイジ・マルティニを起用しました。

しかしこの年はマシンの信頼性が低く、フル参戦初年度のマルティニの経験不足も重なりリタイアを連発。
完走はたった3回に終わり、F1の厳しさを痛感したシーズンとなりました。

2年目となる1986年から2カー体制となり、ドライバーにはアンドレア・デ・チェザリスとアレッサンドロ・ナニーニを起用。
しかし相変わらずリタイアが続き、チェザリスに新車が投入されたあとの第15戦メキシコGPで2台揃って完走したことが、シーズン唯一の完走レースとなってしまいました。

翌1987年も信頼性に苦労し、ノーポイントに終わり、参戦開始から3年間は完走すらままならない状況でした。

上位進出の兆候

引用:http://www.minardi.it/wp-content/uploads/2020/04/1991_11_BEL_Martini_A2.jpg

チームが上位進出の兆しを見せ始めたのは参戦4年目の1988年。

この年からパフォーマンスが改善されないモトーリモデルニエンジンとの提携を解消。
フォードコスワースのNAエンジンを搭載しました。

そしてマシンは完全新設計のM188を投入します。

ドライバーにはペレス・サラとエイドリアン・カンポスを起用しますが、第6戦アメリカGPからカンポスにかわり、マルティニがチームに復帰。

するとこのアメリカGPで、マルティニが完走9台のサバイバルレースを生き残り、見事6位でチェッカー。
ミナルディに待望の初のポイントをもたらす結果となりました。

入賞はこの1回に終わったものの完走率は前年までと比べ格段に上がり、チームにとっては大きな進歩を遂げた1年となりました。

翌1989年は、第8戦イギリスGPでマルティニが5位、サラが6位に入賞し初のダブル入賞を達成しました。

この年のF1の規定では、第8戦までの成績下位のチームが後半戦の予備予選組にまわされるルールとなっており、
結果的にミナルディは土壇場で予備予選を回避することに成功しました。

すると、マルティニが第13戦ポルトガルGPで5位、最終戦オーストラリアGPではなんと予選3番手を獲得し、レースでも6位入賞。
ミナルディは6ポイントを獲得し飛躍のシーズンとなりました。

89年後半の活躍から、テールエンダーを脱却し中団グループの一角を担うようになっていったミナルディは、1990年も開幕戦アメリカGPでマルティニが予選2番手、初のフロントローを獲得。
速さをアピールしますが、この年は信頼性の問題が多くノーポイントに終わってしまいます。

1991年はさらなる躍進を狙って、エンジンをフォードから禁断のフェラーリのV12エンジンに変更。

強力なフェラーリエンジンの恩恵は大きく、第3戦サンマリノGPではマルティニがチーム最高位の4位入賞。
第13戦ポルトガルGPでは、4位を走るマルティニが本家フェラーリのジャン・アレジを追い回し、あわや表彰台という場面も見られました。

結局、この年はマルティニが獲得した2回の4位入賞により、コンストラクターズランキング7位。
チームの黎明期、成長期を支えたマルティニは「ミスターミナルディ」の異名を与えられました。

慢性的な資金難も…ブリアトーレ時代は有望な若手を次々発掘

引用:https://staticv2.revistascratch.com//images/noticia/video-revive-una-vuelta-de-fernando-alonso-en-minardi_full.jpg

前年の活躍でさらなる躍進が期待されたものの、フェラーリエンジンの使用料がチームの財政を圧迫。
これによりたった1年でフェラーリエンジンを手放すことになってしまいます。

苦境に立たされたミナルディは92年はランボルギーニエンジンを搭載し、
この年のルーキー、クリスチャン・フィッティパルディがなんとか第15戦日本GPで6位入賞。

1993年はフォードHBエンジンに載せ替え、フィッティパルディが開幕戦南アフリカGPで4位入賞するなど、計4回の入賞を果たし、ランキング8位
しかし、資金難に陥ったスクーデリアイタリアと合併した1994年、1995年はどんどん成績が下がっていき、ともにランキング10位。

さらに、ミナルディが参戦を開始した当初の牧歌的な雰囲気で技術的にもアナログだった時代から、自動車メーカーが資金を投入して開発競争が激化し新しいテクノロジーがどんどん導入されて行く時代へと移り変わっていったF1では参戦コストが高騰し続けていました。

そんな時代の流れを受けたミナルディは経営苦しみ、
ジャンカルロは1996年、当時ベネトンのチームマネージャーを努めていたフラビオ・ブリアトーレにチームの株式の大半を売却。

ブリアトーレがミナルディのオーナーとなったのです。
すると以降はブリアトーレがマネジメントする若手ドライバーを多数起用するようになっていきます。

96年はルーキーのジャンカルロ・フィジケラが第8戦カナダGPで記録した8位が最高位となり6年ぶりのノーポイントとなると、
1997年は片山右京、1998年は中野信治と日本人ドライバーも2年連続で起用されますが、マシンに競争力はなく3年連続でノーポイント。

また、1997年にはブリアトーレがチームをフォンドメタルのガブリエル・ルミに売却。

1999年は第14戦ヨーロッパGPでマルク・ジェネが6位に入賞しひさしぶりのポイント獲得となりますが、チームの経営状態は更に悪化。
この頃になると毎年撤退やチーム売却の噂が絶えませんでした。

ストッダート政権で再起をかけるも…レッドブルグループへのチーム売却

引用:https://www.f1sport.it/wp-content/uploads/2015/12/minardi_2003.jpg

2001年になると、ヨーロピアン航空を経営していたポール・ストッダートがミナルディの経営権を取得。

するとかつてのオーナー、ブリアトーレがドライバーとして送り込んだルーキー、フェルナンド・アロンソが才能を見せつける走りを披露。
ミナルディで自身のポテンシャルをアピールしたアロンソは後にワールドチャンピオンを獲得することになります。

翌2002年はルーキーのマーク・ウェーバーがミナルディからデビューし、開幕戦オーストラリアGPで混乱の展開をかいくぐり5位入賞。
99年以来のポイントを獲得しました。

しかし2004年には他界してしまったチームのスポーティングディレクター、ジョン・ウォルトンを追悼するため、
第11戦イギリスGPでマシンからスポンサーロゴを外してレースに出場したことが、メインスポンサーのウィラックスを怒らせてしまい、スポンサー契約を打ち切られてしまう事態に。
これにより資金難に拍車のかかってしまいます。

2005年には、ミシュランユーザーが全車レースを棄権しブリヂストンユーザー6台のみでレースを行った第9戦、アメリカGPでダブル入賞。
これがミナルディのF1での最後の入賞となりました。

2000年代中盤に入り、自動車メーカーが莫大な予算を投じてF1に参戦する傾向が強まっていくにつれ、
ストッダートはこれ以上F1に生き残ることは難しいと悟り、売却先を探し始めていました。

そして、最終的にはセカンドチームを構想していたレッドブルのオーナー、ディートリッヒ・マテシッツとチーム売却の話がまとまり、
ミナルディは2006年からレッドブルのセカンドチーム、トロロッソとして参戦することが決定。

ファクトリーやチームスタッフの大多数はトロロッソに引き継がれましたが、ミナルディの名はF1から消えることになりました。

近代F1チームらしくない、アットホームなチームカラーやパドックで一番の味と言われたケータリングサービスなど、
ファンや関係者から愛されたミナルディの伝説は今でも根強く語り継がれています。

【動画で解説】ミナルディF1チームの歴史