F1

【世界一のタイヤブランドへ】ブリヂストンのF1挑戦の歴史が凄すぎる!

先日ブリヂストンがF1の次期タイヤサプライヤーの候補となったことが話題となりましたね。

最終的には、2011年からF1にタイヤをワンメイク供給するピレリが、2027年までのサプライヤー契約を更新しました。

しかし、ピレリがF1にタイヤをワンメイク供給する前の時代は、ブリヂストンのタイヤがF1で高い信頼を誇るタイヤを供給し続けていました。

今回は、そんなブリヂストンのF1活動の歴史を振り返ってみたいと思います。

F1へのスポット参戦と本格参戦に向けた準備の時代

1930年、日本足袋のタイヤ部門として誕生し、1931年に独立したブリヂストン。

1963年の第一回日本グランプリからレーシングタイヤを供給するなど、古くから国内モータースポーツに参入していました。

1971年には、F1で初めてスリックタイヤが導入された事を受け、国内レース向けに初めてスリックタイヤを導入、積極的に先進技術を投入し国内トップレベルのタイヤサプライヤーとして活動を続けていたほか、その後は初めてルマン24時間レースに参戦するマシンにタイヤを供給するなど、レースでの活動の場を広げていたのです。

そんなブリヂストンがF1に初めて参戦したのは1976年。

ブリヂストンは当初、この年富士スピードウェイで開催される事が決定したF1インジャパンのスポンサーになることが決まっていました。

しかし、「自社がタイヤを供給していないレースに協賛するのはいかがなものか」という声が社内で上がった事から、急遽F1へのタイヤ供給の検討が始まったのです。

偶然にも、当時すでに開発スタッフが自主的にF1タイヤの試作を行なっていたことから、これを足がかりに社内でモータースポーツ推進グループを発足。

開催まで数ヶ月に迫るなか推進活動を続け、スポット参戦を予定していた星野一義のマシンにタイヤを供給する事が決まったのです。

すると星野はこのレースで好走を見せ、雨の中一時3位を走行する走りを披露。

ブリヂストン側も手応えを感じ、「いつかはF1にフル参戦する」という機運が高まったのです。

翌77年の日本GPにもスポット参戦を果たした日本人ドライバーのマシンにタイヤを供給していたブリヂストンでしたが、この年限りで一旦日本でのF1開催は終了。

モータースポーツ部門のスタッフは、この頃からF1本格参戦の可能性を検討したものの、会社側は当時の体制では、F1でナンバーワンのシェアを誇っていたグッドイヤーと渡り合うことは難しいと判断。

F1での活動はしばらく休止することになるのです。

しかしその後も、ブリヂストンはF1参戦を見据えたモータースポーツ活動を展開していきます。

1981年にはヨーロッパF2選手権に進出し、ホンダエンジンを使用するラルトにタイヤを供給。

80年代中盤には密かにF1タイヤのテストを行うプロジェクトが、「ラジアルレーシングタイヤの基礎研究」という名目で設立され、F1仕様のタイヤテストを繰り返し行なっていたのです。

1987年から鈴鹿サーキットで再び開催されることになった日本GPには、スタッフが視察に訪れ、F3000との区間タイムの比較を実施。

この検証では鈴鹿のS字区間のタイムがF3000のほうが速いという事が分かったほか、当時のF1タイヤのグリップレベルをこのタイムから推測し、研究データに落とし込んでいきました。

そんななか、1988年にはアメリカのファイアストンを買収するなど、着実に企業規模を拡大させていたのです。

すると、1989年には当時F1エンジンの開発を進めていた無限ホンダのテストに参加。
無限のF1用V8エンジンの試作基を搭載したレイナードのF3000マシン開発中のF1仕様のタイヤを装着して、初めて実走テストが行われたのです。

その後、無限ホンダによるF1テストは彼らがF1に参戦するまで継続して行なわれましたが、ブリヂストンもまた、この機会を活用してデータを蓄積していったのです。

満を持してF1参戦したブリヂストン!

F1を志してから20年近くが経過した90年代中盤、ブリヂストンは国際的にも認められ始めていました。

1995年には世界で19%のシェアを獲得していましたが、タイヤメーカーとして世界一のブランド力、知名度を目指すために、さらなる一手を考えていたのです。

ブリヂストンはF1への参戦が、欧州での知名度とブランド力の向上に絶大な効果があると認識しつつも、その膨大な参戦コストに躊躇していました。

そんななか、当時のF1タイヤ開発の主要スタッフは「ヨーロッパでのシェアを拡大するためにはF1に参入するしかない」と経営陣を説得。

世界的に技術力をアピールできる場としてF1参戦の意義を唱え、1996年、ついにブリヂストンのF1参戦が決定するのです。

こうして、ブリジストンはこの年、1998年からのF1参戦を目指し、本格的なタイヤ開発に着手。

しかし、ここで課題となったのがテスト環境でした。

なんとか実際のF1マシンでテストを行いたいと考えていたブリヂストンですが、当時のF1はグッドイヤーのワンメイク状態。

どのチームもブリヂストンのタイヤ開発に協力すればグッドイヤーからの待遇が悪化するリスクがあり、F1チームからの協力を得るのは難しいと見られていたのです。

そんななか、ブリヂストンはヨーロッパF2時代から親交があったトム・ウォーキンショーにコンタクトします。

当時、アロウズのチームオーナーを務めていたウォーキンショーは、グッドイヤーから「今後アロウズがグッドイヤーのタイヤテストを行なわないならブリヂストンとのテストを行っても良い」という条件を取り付け、ブリヂストンに協力。

前年までオーナーを務めていたリジェJS41をテストカーとして手配し、自らのチームスタッフを派遣するなど、協力体制を敷いたのです。

テスト走行を行うドライバーには、鈴木亜久里、ヨス・フェルスタッペン、デーモン・ヒルら、F1ドライバーも多数参加。

当初は2年間テストを行い、入念に参戦準備を行う予定だったブリヂストンでしたが、96年のテストでは既にグッドイヤーと同等以上のタイムを叩き出し、手応えをつかんでいました。

ここでブリヂストンは、さらに一年参戦を待てば、グッドイヤーに開発の猶予を与えてしまうと考え、急遽参戦計画を変更。

予定を1年前倒しして1997年からF1に参戦することが決まったのです。

参戦2年でF1の王座へ

こうして1997年からF1に参戦することが決まったブリヂストン。

供給先となったチームは、ウォーキンショー率いるアロウズを始め、プロスト、ミナルディ、スチュワートの4チーム(初戦で撤退したローラを除く)で、初年度はすべて無償供給。

すると、開幕戦オーストラリアGPでは、いきなりプロストのパニスが5位入賞。
さらに、第2戦ブラジルGPでは、グッドイヤー勢が2ストップのなかブリヂストン勢は1ストップでもタイムが落ちず、パニスが3位表彰台を獲得。
グッドイヤーと渡り合えることを証明したのです。

この年規定が変更されたレギュレーションもブリヂストンにとっては追い風でした。
この年は、タイヤに関する規定が一部変更されており、レースウィークには2スペックのタイヤを持ち込み、予選までにどちらのスペックを使用するか決める形式になっていたのです。

F1開催サーキットに関するデータの少ないブリヂストンは、GP前に適切なタイヤのコンパウンドを判断することが難しいだろうと考えれており、グッドイヤーにその点のアドバンテージがあると見られていましたが、持ち込めるタイヤのスペックが2種類になったことで、片方を外してももう片方のスペックでリカバリーが効くようになったのです。

そしてシーズンは進み、第11戦ハンガリーGP。
このレースではアロウズのデーモン・ヒルが終盤までトップを走行。
惜しくも最終ラップでトラブルを引き起こし2位表彰台に終わったものの、参戦初年度であわや初優勝という場面をみせたのです。

すると翌1998年は、ブリヂストンのポテンシャルを見たマクラーレン、ベネトンといった上位チームもサプライヤーをグッドイヤーからブリヂストンへスイッチ。

グッドイヤーとの本格的なタイヤ競争が過熱していくのです。

この年は、F1のタイヤ規定が大きく変更。
コーナリングスピードを抑制する目的でスリックタイヤが禁止され、縦に溝が入ったグルーブドタイヤの使用が義務付けられました。

ブリヂストンは、この規定変更に伴うグリップダウンやアンダーステアへの対策として、従来よりも直径10mm、幅を20mm拡大したタイヤを開発。

マクラーレンは当初、空気抵抗が増えるとしてこのタイヤに反対していましたが、最終的にはチームを説得してこのタイヤを投入したのです。

そしてシーズンが始まると、この策が功を奏します。
グッドイヤー勢のマシンがアンダーステアに悩まされるなか、ブリヂストンを履くマクラーレンMP4-13が圧倒的な速さでシーズンをリードしたのです。

グッドイヤーは後に、ブリヂストンと同様大型タイヤをシーズン中盤に導入。
しかし、シーズン序盤からこのタイヤを開発し続けてきたブリヂストンに優位性があるのは明白でした。

最終的にこの年のマクラーレンは9勝を上げ、見事ダブルタイトルを獲得。
ブリヂストンはF1参戦2年目にしてチャンピオンチームの足元を支え、F1で最多勝を誇るグッドイヤーを破ったのです。

そしてグッドイヤーはこの年、開発コストの高騰やグルーブドタイヤへの不満からF1からの撤退を決定。

ブリヂストンはなんとかライバルが撤退する前にタイヤ競争を制し、その技術力を世界に知らしめたのです。

ミシュランとの壮絶なタイヤ開発競争

グッドイヤーが撤退し、その後2年はブリヂストンのワンメイク供給となったF1ですが、すぐに新たな強敵が現れることになります。

フランスのミシュランが2001年からのF1参戦を表明。

ミシュランは、1970年代から80年代にかけてF1にタイヤを供給していましたが、1984年を最後に撤退、しかし99年の末には既に水面下で復帰への準備を進め、すでにウイリアムズとトヨタ(2002年から)へ供給が決まっていたのです。

ブリヂストンにとってミシュランは、過去に別のカテゴリでも争いを繰り広げてきた因縁の相手。

ミシュランの復帰が決まった2000年には、翌年以降のタイヤ規定を巡って舌戦を繰り広げるなど、激しいタイヤ競争が予想されたのです。

そして2001年、ミシュランは復帰4戦目となるサンマリノGPで早くも優勝。
ミシュランタイヤの完成度の高さにブリヂストン側は焦ったといいます。
そんなタイヤ競争のなか、ブリヂストンが強固なパートナーシップを築いていたのが2000年に久々のダブルタイトルを獲得し、その強さを盤石のものにしようとしていたフェラーリでした。

ブリヂストンはミシュランの復帰が決まったあと、どれだけのチームが離れていくか不安視していましたが、フェラーリはいち早くブリヂストンを使い続ける事を彼らに伝え、長期のパートナーシップを約束したのです。

すると、2001年はそのフェラーリがさらなる強さをみせ、2年連続のダブルタイトルを獲得、打倒ミシュランの協力なパートナーとなったのです。

しかし、フェラーリとのパートナーシップによる弊害もありました。
、F1での初のタイトルを共にしたマクラーレンが翌2002年からミシュランにスイッチ。

マクラーレンはチャンピオンを争うライバルと同じタイヤでは待遇面の差で不利だと考え、ブリヂストンとの決別を選んだのです。

しかしこれによりフェラーリとブリヂストンのタッグはより強固なものに。
フェラーリはほかのチームの約3倍にあたる、年間2万8000キロに及ぶタイヤテストを行い自分たちに合うスペックのタイヤ開発を強化。

ミハエル・シューマッハはレースの前の週にのテストでタイヤの課題が分かると、翌週のレースでは改善したスペックを持ってくるよう要求するなど、当時のフェラーリは勝利へのこだわりが非常に強かったのです。

マクラーレンが抜けた事でトップチームへの供給はフェラーリのみになったブリヂストンもそれに応え、タイヤ開発が進められていきました。

そしてフェラーリは、2004年まで盤石の強さでチャンピオンシップを連覇。
ブリヂストンタイヤも熾烈なタイヤ競争に晒されながらも、このフェラーリ最大の黄金時代を支え続けたのです。

複数サプライヤー時代の終焉!ワンメイク供給へ

しかし、2004年にはそのフェラーリの勝利への飽くなき執念が翌年以降に大きな影響をもたらすことになります。

圧倒的な強さで連覇を続けていた当時のフェラーリの目標は全戦全勝。
チャンピオンを取ることが当たり前の状況になってもなお勝ち続ける事ができたのはこの高い志があったからでした。

しかし、2004年には目の前の勝利にこだわり過ぎた結果、次のレースを勝つための開発がシーズン終盤まで続き、ブリヂストンはなかなか翌シーズンのタイヤ開発に着手できずにいたのです。

そして翌2005年にはタイヤに関するレギュレーションが改定。
予選と決勝を1スペックのタイヤで、タイヤ交換をせずに走りきらなければならなくなったのです。

前年とは全く違う特性のタイヤが求められるなか、タイヤ開発が遅れたブリヂストン陣営は、速さと耐久性を両立することに苦慮し、2005年の開幕時点では速さより耐久性を重視したタイヤを投入せざるを得なかったのです。
案の定、この年のブリヂストンとフェラーリは苦戦。

この年はミシュラン勢のルノー、マクラーレンが優勝を分け合いタイトル争いを展開するなか、ブリヂストンとフェラーリはわずか1勝に留まり、チャンピオンタイヤの座をミシュランに明け渡すことになったのです。

しかし、この年ブリヂストンの唯一の勝利となった第9戦アメリカGPでは、ミシュランのタイヤを巡って大事件が発生していました。

このレースでは、フリープラクティスでタイヤバーストを起こしたトヨタ、ラルフ・シューマッハのクラッシュをきっかけに、ミシュランタイヤの構造上の問題が発覚。

通常とは違う負荷がかかるアメリカGPの舞台、インディアナポリスのオーバルトラックを安全に走れるタイヤが用意できず、ミシュラン勢の14台がレースを棄権する事態となったのです。

この年ついにブリヂストンを破り、復帰後初タイトルを手にしたミシュランでしたが、この事件によりその信頼は増すどころか失墜。

ミシュランは事件によりFIAとの関係性も悪化したことも影響し、F1が将来的にワンメイクタイヤに移行すると発表した2006年を最後に撤退。

F1の歴史に残る熾烈なタイヤ競争は意外な形で終わりを迎えたのです。

そして2007年以降は、再びF1で唯一のタイヤサプライヤーになったブリヂストン。

全チームに公平でハイレベルな供給を行うため、ミシュランとのタイヤ競争時代よりも体制を強化してタイヤ供給を続けていきました。

2009年にはレギュレーションが大きく変更され、12年ぶりにスリックタイヤが復活。
この年からF1ではエアロダイナミクスを大幅に制限し、乱気流の発生を減らしてオーバーテイクを増やす狙いがありましたが、そのグリップを補うためにタイヤがスリック化されたのです。

各チームやF1側からの厳しい要望に常に答え続け、F1で安定したタイヤ供給を続けてきたブリヂストンのブランドは、この頃には確固たるものになっていました。

そんななか、2008年には世界的な金融危機の影響でF1に参戦する各メーカーが活動を縮小。
ブリジストンもこの影響を受け、2009年のシーズン終了後、契約の残る翌2010年を最後にF1から撤退することを発表し、長きに渡るF1でのタイヤ供給を終えるのです。

F1本格参戦を夢見てから20年後にF1に参戦し、当初の目標通りタイヤメーカーとして世界的なブランドを確立したブリヂストン。
その実績は揺るぎないものとしてF1の歴史に残り続けています。

【動画で解説】ブリヂストンのF1活動の歴史

ABOUT ME
レイン@編集長
F1・モタスポ解説系YouTuber。 レースファン歴数十年です。 元アマチュアレーサー。 某メーカーのワンメイクレースに5年ほど参戦していました。