スーパーGT

【日本レース界の伝説】高橋国光のレースキャリアが偉大すぎる

日本のモータースポーツ黎明期から2輪と4輪の両方でトップレベルで活躍していた、高橋国光。
日本レース史に残る数々の功績はまさに伝説と言えるものでした。

今回は日本レース界の伝説、高橋国光のレースキャリアについて解説していきたいと思います。

高橋国光のの偉大なレースキャリアを解説

【2輪での活躍】ライダーとして日本人初の世界選手権制覇

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近年では4輪レースでの活躍の印象が強い高橋国光ですが、キャリアのスタートは2輪からでした。

1958年、全日本クラブマンレースのジュニアクラス(350CC)でレースデビューすると、上位クラスを上回る平均速度を記録し優勝。
翌年も同大会の500ccクラスに出場し優勝したことで、当時プロライダーやメーカーのワークスライダーしか参加資格がなかった浅間火山レースに招待選手として出場。
セニアクラス(500cc)でいきなり2位に入る活躍を見せました。

この走りで注目を集めた国光は、
当時創業者の本田宗一郎が「世界一のバイクを作る」という目標を掲げ、1959年から世界への挑戦を開始していたホンダのワークスライダーとして迎え入れられることになり
1960年から、ロードレース世界選手権(WGP)への参戦を開始します。

すると国光は1961年の西ドイツGPで、日本人ライダーとして初となる世界選手権優勝(250cc)の快挙を達成。
翌1962年は125ccクラスに出場で序盤戦のスペインGP、イタリアGPを連勝。
初の王座獲得が現実味を帯びていました。

しかし、数日後に行われたマン島TTレース(WGP第3戦)のレース中に国光は激しく転倒。
一時は意識不明の重体に陥ってしまいました。

奇跡的に回復し2輪レースに復帰した国光でしたが、事故前の速さは失われ、苦悩の日々が続いていました。

【四輪レースへ電撃転向】天才的な走りでF1にも参戦

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2輪で速さが戻らず日々が続いていた国光でしたが、
ある時、ともにWGPに挑戦していた田中から誘いを受け、同じくホンダワークスライダーとして活躍していた北野元を含めた3人で4輪レースに転向。

日産ワークスに加入します。

1965年に4輪レースにデビューした国光は、翌1966年の富士クラブマンレースで初優勝。

1967年には第4回日本グランプリに出場し、生沢徹と激しいトップ争いを展開。
生沢のスピンに巻き込まれたことが影響し、一時は周回遅れとなりますが、鬼神の追い上げで最後は2位まで挽回。
このときの走りは往年のレースファンの中で語り草となっています。

68年、69年にも日本グランプリに参戦。
優勝候補と目されトップを争ったもののトラブルに泣き勝利を逃したことで、
「無冠の帝王」と呼ばれる様になったといいますが、1972年には当時圧倒的な強さを誇ったハコスカスカイラインGT-Rの通算50勝目を挙げました。

国光はこのハコスカGT-Rの弱オーバーステアの特性を生かしたドリフト走法を多用。
華麗な走りでファンを魅了しました。

しかし、この72年にはオイルショックの影響で、日産がワークス活動を一時休止したため、以降は富士GCレースや、フォーミュラレースに活躍の場を移して行きました。

1977年には富士スピードウェイで開催されたF1日本グランプリに当時37歳でスポット参戦。
型落ちのティレル・007を駆り、見事9位完走を果たしました。

1978年にはリカルド・パトレーゼとのバトルを制しF2・JAFグランプリで優勝。
無冠の帝王と呼ばれた国光にとっての初のビッグタイトル獲得でした。

ヨコハマタイヤとの最強タッグ!グループCを席巻

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1980年、40歳を迎えた国光のもとに、78年から高性能タイヤブランド「ADVAN」の展開を開始したヨコハマタイヤから、ワークス契約オファーが届きます。

国光は当時のヨコハマタイヤの実力に懐疑的で、オファーを受けるかどうか迷ったといいますが、最終的には引き受けることを決断。

1983年には、グループCカテゴリのレースにも参戦を始め、
国光は10月に開催された世界耐久選手権の最終戦、WECジャパンでアドバンカラーのポルシェ956をドライブしました。

すると、ヨコハマと国光のジョイントは全日本耐久選手権(後の全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権、JSPC)で圧倒的な速さを披露。
1985年から87年までと89年で3年連続を含む4度の王座に輝き、全盛期の国内グループCレースを席巻したのです。

1985年には、全日本ツーリングカー選手権(JTC)に参戦。

このレースで国光は当初、英国ツーリングカー選手権などで活躍を見せていた「三菱スタリオン」で中谷明彦とコンビを組み参戦。
スタリオンでは88年まで参戦を続け、通算3勝を挙げました。

その後は一時JTCの参戦を休止しますが、1992年になると自身のチーム「チーム国光」を結成し、R32 GT-RでJTCに復帰。
コンビを組んだのは国光に憧れ師匠と慕い、自身も国光と同様「ドリフト走法」を武器にレースキャリアを築いてきた土屋圭市でした。

国光と土屋のコンビは1993年の第2戦、大分(現:オートポリス)で優勝。
二人のドリフトキングによる師弟コンビはファンを沸かせました。

【ルマン挑戦】55歳でクラス優勝の快挙

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1986年、国光はドイツのクレマーレーシングからルマン24時間レースに初参戦。
1990年まで連続で出場を果たしますが最高位は9位と、上位に進出することはできていませんでした。

しかし、1994年。
ホンダとのタッグで、NSXでルマンに挑戦するプロジェクトが発足。
3台のNSXをGT2クラスに送り込み、そのうちの1台を国光、土屋、飯田章の日本人ドライバートリオがドライブしました。

この年は車両メンテナンスをクレマーレーシングに依頼したものの、そのクレマー側のミスが目立ちトラブルが頻発。
チーム国光は完走車両の中で最下位に終わってしまいました。

そして1995年。
前年同様GT2クラスに参戦したチーム国光は、メンテナンスガレージを日本のノバエンジニアリングに切り替え参戦。

夜間走行中にヘッドライトが片方壊れてしまい視界を半分失うなど、様々なトラブルに見舞われたものの、粘りの走りで終盤にクラストップを奪い、そのままチェッカー。

史上初のオール日本人ドライバーによるル・マンでのクラス優勝を果たしたのです。
国光にとっては55歳での快挙でした。

スーパーGTでは59歳まで現役!引退後は監督として王座獲得

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1994年にシリーズが発足した現在のスーパーGTの前身、全日本GT選手権(JGTC)には初年度から参戦。

94年は第4戦SUGOでGT1(現GT500)クラスで初優勝を果たしました。

1996年からはマシンをポルシェからNSXにチェンジ。
1997年からはヨーロッパ挑戦が不調に終わった飯田を迎え入れコンビを組むと、98、99年に1勝づつを挙げる活躍を見せました。

そして、2輪時代から数えて42年、第一線で活躍し最後まで衰えを見せない走りを見せていた国光でしたが
59歳を迎えたこの年、多くのファンに惜しまれながら現役から引退。

以降はチーム国光の監督としてスーパーGTへの参戦を続けていました。

チーム国光は2018年に山本尚貴、ジェンソン・バトンのコンビで念願のシリーズチャンピオンを獲得。
2020年にも最終戦の最終ラップにガス欠によりスローダウンしたKeePerトムススープラを抜き去るという劇的な結末で2度目の王座を獲得していました。

晩年は闘病生活を続けていたという国光でしたが、2022年3月、82歳で他界。
前年までレースの現場に足を運び、元気な姿を見せていただけに、レース業界は悲しみに暮れました。

2輪と4輪の両方で世界レベルの活躍を見せ、多くの伝説を残した高橋国光。
日本のモータースポーツ黎明期から長きに渡り残したその功績は今後も日本のレース史に残り続けることでしょう。

【動画で解説】高橋国光の偉大なレースキャリアを解説

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