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【幻のルマン制覇】悲運の名車トヨタ GT-One(TS020)とは?

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日本車と日本人ドライバートリオの組み合わせによる、初のルマン総合優勝目前まで迫った、トヨタTS020。
トヨタが本気でルマン総合優勝を狙ったそのプロジェクトには様々なエピソードが隠されていたのです。

今回はトヨタが90年代後半にルマンに投入したGT-one(TS020)の歴史とエピソードを紹介していきます。

悲運の名車トヨタ GT-One(TS020)とは?

グループCでの屈辱…再びルマン総合優勝を目指したトヨタ

グループCカー全盛期の1980年代中盤。
トムスが童夢と共に開発した84C/85Cでルマン24時間レースに参戦すると、1987年からはトヨタがワークス体制でルマンに参戦を始めます。

すると1989年に投入した89Cが、世界スポーツプロトタイプカー選手権(WSPC)開幕戦の鈴鹿でポールを獲得するなど速さを見せますが、ルマンでは参戦してしばらく好成績を残せずにいました。

しかし、1991年にグループCの規定が大幅に改正されると、トヨタは1992年から新車TS010を開発しWSPCから改称したSWC(スポーツカー世界選手権)に投入。

開幕戦モンツァで小河等、ジェフ・リースのコンビで悲願の優勝を果たしたのです。

しかし、ルマンではこの年のライバルであったプジョー905に破れ、惜しくも総合2位。

翌1993年も予選では宿敵プジョーを予選で上回る走りを見せるも、決勝レースではミッショントラブルが頻発し、プジョーに表彰台を独占されるという屈辱を味わいました。

トヨタワークスはこの年で一旦、ルマンへの参戦を終了。
グループCカーが出場できた最終年となった1994年はサード、トラストが旧型車をモディファイした94C-Vでルマンに出場。

サードが歴史的な快走で優勝目前に迫ったもののトラブルによりまたしても総合2位となり、トヨタはルマンで苦渋を味わい続けていました。

一方、世界ラリー選手権(WRC)に参戦していたトヨタチームヨーロッパ(TTE)はこの頃黄金期を迎えていました。

元々はラリードライバー、オベ・アンダーソンのプライベートチームを後にトヨタが公認したことでワークス体制となったTTEは1990年、92年にカルロス・サインツがトヨタ・セリカ(ST-165)を操りドライバーズタイトルを獲得すると、93年、94年にはドライバーズとマニュファクチャラーズのダブルタイトルを2年連続で獲得していました。

93年にはTTEの母体、アンダーソンモータースポーツをトヨタが買収し、トヨタモータースポーツ有限会社(TMG)が誕生。

トヨタは欧州でのレース活動にさらに注力していくため、WRC以外のレース参戦を検討、それまでのトヨタワークスがグループCで達成できなかったルマン総合優勝にTMGとして挑戦していく方針を決定します。
(TTEはその後WRCでの不正が発覚ししばらく参戦を休止した。)

また、トヨタ本社はこのプロジェクトが進行中の97年頃に将来的なF1参戦の意向を決定。
TMGがルマン参戦の準備を進める中、そのTMGにF1チームの運営を任せる方針となりました。

群雄割拠のルマンGT1クラス挑んだTS020

90年代前半にグループCが終焉を迎え、SWCが消滅。
その車両規定に準じてクラス編成が行われていたルマンでは90年代中盤からクラス編成が再編されつつありました。

ルマンを主催するフランス西部自動車クラブは、ルマンの参加台数を確保するためSWCの代替レースとして始まったBPR GTの車両規定をベースとしたLM GT1、LM GT2を新設。

これによりルマン参加車両にGT車両が増加していくと、1997年には「BPR GT」がFIA直轄カテゴリのFIA GT選手権として開催されるようになります。

するとFIAもメーカーの参戦を促すため車両公認を緩和し、
97年(ルマンは94年)からGT1はベース車両が1台でも生産されていれば車両公認を与えられたため、各メーカーは実質的な純レーシングカーを1台(〜数台)生産し公認を取得するという方法で参入。
GTとは名ばかりのプロトタイプカーレースと化していったのです。

これによりポルシェ、BMW(マクラーレン)、メルセデス・ベンツ、日産など、多くの有力メーカーがGT1車両を製作し、FIA GTやルマンに参戦。

90年代後半のルマンはこれらのGTカーに、プライベーターチーム中心の純粋なプロトタイプカー(LMP)が入り乱れた混戦の時代でした。

そんななかマシン開発に着手したトヨタ(TMG)は、当初LMP車両として新車TS020の開発を計画していました。

しかし、プロジェクト内に「自動車メーカーが作るなら屋根付きのクルマらしい形状のマシンで挑戦したい」という意向があったことなどから、最終的にGT1車両を開発する方針を決定。

設計責任者にかつてトヨタのルマン優勝を阻んだプジョー905を設計したアンドレ・デ・コルタンツを迎え入れ、開発が進められました。

ダラーラとともに制作したカーボンモノコックは完全一体型で、エンジンはグループC用のR36Vエンジンを改良したものを搭載し、TTEがWRCで採用していたミスファイアリングシステムを流用しました。

ボディは空力性能を徹底的に追求し、GTカーとは思えないスタイリングにまとめられました。
また、GT1のレギュレーションでは生産車両の体裁を保つため、車両にトランクスペースの確保を義務付けていましたが、トランクの中身に関する制限が無かったため、TS020ではコクピット後方に設置したトランクスペースの中に燃料タンクを設置するという、レギュレーションのスキを突くアイディアを見出し、リアセクションの無駄を省くことに成功。

このデザインは「もはやプロトタイプではないか」と物議を醸したものの、レギュレーション上は問題なく、TS020は当時のGT1規定を最大限に突き詰めたマシンに仕上がったのです。

こうして完成したトヨタGT-One(TS020)は、1998年のルマンに3台のマシンを投入。
そのうちの一台は、片山右京、土屋圭市、鈴木利男という、F1やルマンで実績十分の日本人トリオで挑みました。

すると予選でマーティン・ブランドルらがドライブする28号車がメルセデス・ベンツCLKに次ぐ予選2番手を獲得。
いきなり優勝を期待させるポテンシャルを発揮します。

決勝では27、28号車は早い段階でミッショントラブルに見舞われ戦線離脱してしまったものの、29号車は夜間のトラブルを乗り越えトップを走行。
残り1時間とわずかの時点で1位を守っていましたが、ここで痛恨のミッショントラブルが出てしまいリタイア。

TS020は衝撃的な速さを見せたものの、後方に沈みながら走行を続けた日本人トリオがドライブする27号車が9位で完走するにとどまり結果には結びつきませんでした。

ルマン総合優勝目前も…終盤タイヤバーストで無念の2位

好走を見せながらトラブルに泣いたトヨタは翌1999年のルマンに向け改良を実施。

99年のルマンは名ばかりとなっていたGT1クラスが廃止され、GTプロトクラスが新設。
これに伴い燃料タンクの規定最大容量が縮小されたためTS020も燃費性能の向上が図られました。

そして迎えた99年のルマン。
トヨタは前年と同様3台のマシンを送り込みます。
前評判でもトヨタ圧倒的有利とされ、予選では前評判通り1、2号車がフロントローを獲得します。

しかし決勝レースがスタートすると状況は一変、ライバルのBMW、メルセデス・ベンツに対してなかなか差をつけることができず、緊張感のあるレース展開が続いていました。

すると、フロントローからスタートした2台のTS020はレース中盤までにトラブルやクラッシュに巻き込まれリタイア。
クラッシュを喫した2号車のティエリー・ブーツェンは重傷を負い、現役ドライバーを引退することになってしまいます。

そしてこのレースではトヨタのライバル、メルセデスCLRも宙を舞う大クラッシュを演じ、波乱のレース展開となりました。

そして、ルマン制覇の夢は日本人トリオの3号車に託されることになります。

終盤、2位以下を大きく引き離していたトップのBMW、14号車がクラッシュしリタイア。
これにより優勝の可能性が出てきた3号車はペースを上げ、最終盤には右京がファステストを出しながら、変わってトップに立ったBMWのもう一台に迫り、一時は1周以上あったその差は30秒以内に縮まっていました。

ペースでBMW上回る3号車はチェッカーまでにトップを奪えるペースで走行を続け、トヨタ悲願のルマン制覇が視野に入ったと思われました。

しかしその直後、追い上げを見せていた3号車の左リアタイヤがバースト。

右京は体勢を立て直しクラッシュは免れたものの緊急ピットインを強いられタイムロス。
結局3号車はこのロスが響き総合2位でチェッカーを受け、日本人トリオによるルマンの最上位記録を達成したものの、それ以上に悔しさがあふれるレースとなってしまいました。

この年のレース終了後からは、TMGは前述のF1参戦プロジェクトに取り組むことが決まっていたため、この年限りでルマン参戦を終了。

TS020はF1マシン開発のためのテストカーとして使用され、F1マシンの開発に活用されました。

【動画で解説】悲運の名車トヨタ GT-One(TS020)とは?

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