今では世界を代表するサーキットになった鈴鹿サーキットが現存する日本の常設サーキットとしては最も最古のコースですが、
鈴鹿サーキットの誕生からさらに26年前、日本初の常設サーキットが東京近郊に存在したことをご存じでしょうか。
今回は日本初の常設サーキット、多摩川スピードウェイの歴史を様々なエピソードとともに解説していきたいと思います。
【日本初の常設サーキット】多摩川スピードウェイの歴史を解説
日本初の常設サーキットの誕生

1907年、初の国産ガソリン車が誕生した頃、当時の自動車は一台づつ手作りであったため非常に高価で、富裕層のみが所有できるものでした。
1910年代に入ると日本でも自動車レースが行われるようになったといいますが、
当時の日本には常設サーキットがなく、仕方なく競馬場や埋立地、練兵場などを会場としてレースを開催していたといいます。
世界的に見ても20世紀の初頭に存在した本格的な常設サーキットは、
イギリスのブルックランズ、アメリカのインディアナポリス、イタリアのモンツァのみ。
そんな時代の最中、アメリカで自動車修理会社を経営する傍らレース活動を行っていた藤本軍次が日本に帰国。
アメリカ帰りの藤本は、報知新聞社と共同で自動車レースイベントの開催を企画。
1922年の秋に東京、洲崎埋立地で行われた「自動車大競争」です。
レース当日は5万人(3万人という説もある)の観客を集めた大規模イベントとなりました。
最初はレースに参加できるだけで満足していた参加者たちも、「もっといい場所で走りたい」という想いが強くなっていきます。
実際、埋立地を会場にしたレースでは、雨が降るとコースが走行不可能になり、大会が延期になることもあったのです。
そんな状況に常設サーキットの必要性を感じた藤本は、報知新聞社の担当者とともに日本初の常設サーキットの建設を企画。
1930年代初頭、「日本スピードウェイ協会」を設立し、本格的にサーキット建設に乗り出したのです。
建設地には、東京と神奈川の県境を流れる多摩川の河川敷が候補に上がると、敷地の所有者であった東京横浜電鉄(現 東急)から土地の提供と、総工費の7割にあたる金額の出資を取り付けることに成功したのです。
これによりサーキットの建設が決まりました。
こうして1936年、神奈川県川崎市中原区の多摩川河川敷に、日本初の常設サーキット、多摩川スピードウェイが完成。
コースは1周1200m、コース幅20mのオーバル型コースで、路面はダート路面。
コース脇には多摩川の堤防の役割も果たす土手にはコンクリート製の観戦スタンドが設置されました。
あの本田宗一郎もドライバーとして出場「自動車競走大会」

開業直後の1936年6月7日。
多摩川スピードウェイで初の本格的な自動車レースの大会である、「第一回全国自動車競走大会」が開催されます。
クラスが細かく分けられ、フォード、ブガッティ、ベントレーなどの外国車勢の他、国産車勢からは日産(ダットサン)などが参戦。
日産はワークス体制を組んで参戦したものの、当時三井物産の傘下にあった、オオタ自動車工業が作り上げたマシンに破れ、優勝を逃しました。
この時、スタンドからレースを観戦していた当時の日産の社長、鮎川義介は優勝をのがしたことに激怒し、社員に次回の大会で必ず勝てるクルマを作るように命じ、
第2回大会では異なるスペックの「スーパーダットサン」を2台ずつ持ち込み優勝したことで、新聞に大々的に広告を打ったというエピソードも残っています。
当時は現代以上にレースでの勝利が、メーカーの技術力の証明になっていたことが伺えます。
そしてこの第一回大会には、
のちに本田技研工業を設立する本田宗一郎も4気筒フォードB型エンジン自ら改造して製作した「浜松号」を持ち込んで参戦していました。
宗一郎自らチューニングを施した浜松号は圧倒的な速さでレースを独走しましたが、突然ピットアウトしてきた前の車をよけきれず追突。
マシンは横転しドライバーを務めていた宗一郎と、同乗していた弟の弁二郎はマシンから投げ出され、重傷を負ってしまいました。
第2回からは、第1回大会には参戦していなかった、メルセデスベンツやダッジ、MGなどが参戦。
大会は第1回に続き大きな盛り上がりを見せ、翌1937年の5月には第3回大会が、さらに翌1938年の4月には第4回大会が開催されました。
世界情勢の悪化をきっかけに衰退…短い歴史に幕

1937年に日中戦争が勃発すると、その激化を受けて物資動員計画(国家総動員法)が施行されます。
この影響でガソリンが配給制になったことや、情勢の悪化を受けて多摩川スピードウェイでもイベントが開催されなくなりました。
さらに、1939年には第二次世界大戦が開戦。
世界的にもレースどころではなくなり、
多摩川スピードウェイではオートバイの草レースが開催されるにとどまりました。
1941年に大東亜戦争が始まるとまったくレースが開催されなくなり戦時中は食糧難を少しでも解消するため
サーキットの敷地は農地として活用され、農作物を収穫していたといいます。
1945年に第二次大戦が終了すると、再びオートバイレースが行われるようになりますが、
以前のような大規模な自動車レースは行われませんでした。
さらに、このころ多摩川スピードウェイをオートレース場として転用する計画が持ち上がります。
しかし、翌1950年にはおなじ首都圏内の千葉県船橋市に船橋オートレース場がオープン。
これにより多摩川スピードウェイのオートレース場化計画は頓挫し、今度はかわりに競輪場にする計画が持ち上がるのです。
しかし、これも多摩川が隣接することによる水害や、隣接する川崎競輪場との競合の懸念があったことで計画倒れとなり、
さらには戦後に地方から首都圏への人口流入が活発になり、周辺住人が増えたことでサーキットの騒音が問題視されるようになるなどしたことから1950年代初頭、多摩川スピードウェイは廃止が決定。
日本初の常設サーキットはその短い歴史にひっそりと幕を閉じました。
サーキット跡地は野球グラウンドに転用され、
プロ野球東急フライヤーズの2軍のホームグラウンドとして使用されると、チームが日本ハムファイターズとなった1997年まで使用されたのち、現在は市民が利用できる野球場として運用されています。
また、土手に直接設置されていた多摩川スピードウェイのメインスタンドは、廃止後も取り壊されず一部がそのまま残されていましたが、
堤防として国が定める基準を満たしていないことから2021年に取り壊しが決定。
現在はほとんどが解体、撤去されました。
そして多摩川スピードウェイの廃止から約10年後の1962年。
本田宗一郎が創立したホンダが鈴鹿サーキットを開業。
日本のモータースポーツは新たな歴史を歩むことになったのです。